さよならをあなたに

あずちはです。
かなり重いです。
きっと1年後にはこういうのかけないんだろうなーと思うのです。








一人きりの部屋は、8畳という数字の割にやたらと広く感じた。
それとも今までが狭かっただけだろうか。
もう一人いたから。
私と同じ髪の色をした、あの人が。


「千早ちゃん」
彼女は、哀しげな声で私の名を呼んだ。
「もう会わない方がいいと思うの」
たった一言が私の胸を穿つ。
カフェの穏やかなささめきはその刹那、私の耳から遠ざかった。
「そう、ですか」
私は努めて平静な声を出す。
そうしないと涙が出そうだったから。
聞きたくなかった。
遅かれ早かれ終わりが来ることは、分かっていたはずなのに。



同じデュオのあずささんをいつの間にか好きになっていた。
きっかけも時期も分からない。
ただ、力になりたい、そばにいたいと強く願った。
隣に彼女がいる光景を思い描けば、それだけで幸せだった。
好きになるのに理由などないという言葉は言い得て妙だ。


しかし世の中は得てして残酷なものだ。
私がどんなに慕っていても、あずささんには既に想っている人がいた。
私たちのプロデューサーだった人だ。
現在私たちはデュオを解散し、私はソロで活動、あずささんは引退したから、元プロデューサーだ。
こういう時、普通なら「先に好きになっておけば、告白しておけば」と思うのだろう。
だが私はそうは思わなかった。
どうせ叶わないと知っていたから。
私の恋は特別すぎるから。
ずっと秘めたままにしておこうと決めていた。


なのにあの日、私はあずささんの優しさに縋ってしまった。
忘れもしない夏の夜。
外は雨が降っていた。
「千早ちゃん、辛そうな顔をしているわ」
そう言われた時の、脳を直撃するようなあの感覚。
自覚していたことなのに、相手に告げられただけで動揺してしまった。
「私にできることがあるなら言って」
あずささんの言葉で、私の中の何かが切れた。
プツンと微かな音を立てて。
気づけばあずささんの胸へ飛び込んでいた。
困惑する彼女の服の裾をつかんで、訴えた。
「なら、今夜だけ私の相手をしてください」
溢れる涙であずささんのTシャツを濡らしてしまった。
あの時は無意識だったが、泣き落としだったのだ。
我ながら卑怯だと思う。
あずささんは結局、私の願いを聞き入れてくれた。
一度でいいから、満たされたい。
傲慢な私の願い。
でも優しいあずささんは、私の苦痛を自分の責任だと思い込んでしまったらしい。
その後も回数を重ね、なし崩しに関係を続けることになった。
行為をするごとに、私は自分が満たされているのを実感した。
ただ、あずささんが私を本当は求めていないことくらい分かっていた。
だから、時間が経つにつれ、幸福と同時に罪悪感も募っていった。
甘い麻薬のようなものだ。
その瞬間は安らぎを得られても、緩やかに自分の体を蝕んでいく。

いずれ壊れてしまう関係を見ないふりをしていた。





「このまま関係を続けちゃダメだと思うの」
言葉を紡ぐあずささんの瞳には、確かに涙の膜が貼っていて。
「千早ちゃんのためにもならない……」
俯いた顔から聞こえる消え入りそうな声。
あなたは、優しすぎます。
あなたのその言葉が私の心を痛めつけているのに。
嫌いだと言ってくれたらどんなに楽なことか。
「分かりました」
胸を刺す痛みを鎮めながら私は告げる。
「今までわがままを言ってすみませんでした」
千円札をテーブルに置いて立ち上がる。
千早ちゃん、とあずささんの唇が動いた。
「――ありがとうございました」
別れの言葉は口にしたくなかった。
振り返ることなく、私はカフェを後にした。








無機質な蛍光灯が照らす部屋。
何も考えることがない。
ふとベッドボードに飾ってあるフォトフレームが目に留まった。
手に取ってみる。
写っているのは私とあずささん。
背景の遊園地は二人きりで行った最初の場所だ。
確か帰り際にスタッフの人に頼んで撮った物だ。
あずささんはいつもののどかな笑顔。
嘘でもあの笑顔が見られたのは嬉しかった。
対して私の笑顔は少し恥じ入っている。
写真を撮られることには慣れてないし、隣にあずささんがいるのを意識しすぎていたのだろう。
でも、確かに幸せに満ちた顔をしている。
嘘の日々が続くと信じたかった頃。
私はその写真をフレームから取り出した。
木のフレームから零れ落ちたそれは酷く薄っぺらかった。
写真に両手を添える。
あずささんと決別をするんだ。
すう、と息を入れて、力を込めた。
はずだった。
フィルムには何の変化もない。
力が入らない。
いや、違う。
拒んでいるのだ。
私自身がこの写真を失うことを恐れている。
彼女の優しさに、まだ縋ろうとしている――。
途端に全身から力が抜けた。
カーペットに膝から崩れ落ちる。
踏みとどまっていた涙が、蛇口を開けたようにあふれ出てきた。
駄目だ。
彼女を嫌いになるなんて、忘れるなんて。
できるわけがない。
叶わないと知っていても願ってしまう。
あずささん、会いたい。
会いたいんです――。
写真を握りしめながら、子どものように嗚咽していた。
いつまでも、いつまでも。








翌朝はいつもより早く目が覚めた。
部屋にいると思いだしそうになるから、早めに事務所に向かうことにした。
昨日は一年分の涙が出たんじゃないかと思うくらい泣いた。
だからもうこれ以上は泣けない。
そう思うと少しだけホッとした。

ドアを開けた瞬間、冬の冷気が肌を突く。
顔を上げてみると見慣れた街並みが瞳に映った。
私がどうなろうとも変わらない世界。
ただ、何故だろう。
昨日までの景色より色褪せて見える。
まるで有名な絵画が、色を一色失ったかのような違和感。
――ああ、そうか。
ようやく理解する。
あずささん。
私の世界に『色』を与えてくれたのは、あなただったんですね。


携帯を鞄から取り出す。
アドレス帳を呼び出して、『三浦あずさ』の名を指定する。
出てきたコマンドから、削除を選択。
決定ボタンに添えられた親指が、少し震える。
ためらいが残っている。
でも
今度こそしっかりと、私は力を込めた。
「削除しました」の文字を確認した後、携帯を畳みズボンのポケットに押し込む。
右肩に残る温もりの残滓を振り切って、歩き出す。
まだ好きです。
まだ忘れられません。
だから、あなたとの思い出を抱えて往きます。
これが、私なりの答えです。




――さよなら。